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素数pを、pack horse(=駄馬)の短縮バージョン「p」に置き替える。


整数nを、nag(=駄馬)の短縮バージョン「n」に置き替える。
 

「q」は、quadratic equation(=二次方程式)の略称と仮定する。

 

前記の通りに置き替えたことにより、

 

n(駄馬)のp(駄馬)乗-p(駄馬)は、
q(二次方程式)で割り切れない、

となり、
 

式は成立する。

p > q の場合、nのp乗-p > q となり、q で割り切れる可能性は・・・。

 

いや、「割り切れる」なんてことがあるのだろうか。

 

仕事のために「割り切って」意に沿わぬことをする、とかよく聞くけれど、本当に割り切っていたのならわざわざ「割り切る」という表現はしないはずだ。つまり「割り切る」という言葉を用いる時は、どこか心の奥で割り切れていない思いがある時で、本当に割り切ってはいない時だ。本当に割り切れているときには「割り切る」という言葉は必要ないのだ。

 

したがってこの問題文に「割り切れる」という言葉が使われていることから、「割り切れない」というのは自明である。

それはさておき、近年の角界騒動にはうんざりしている。
どいつもこいつも、どすこいだ。
自分よりも弱いものにどすこい。付き人にどすこい。元横綱は少年誌にどすこい。行司は行司にどすこい。
角界とどすこいは、どこまで行っても割り切れない関係なのかもしれない。
よって、どすこいは存在し続けるのだろう。そう問いにある素数qのように。

 

―――

そんなことより、近年の国会にはうんざりしている。
どいつもこいつも、昭恵夫人だ。
昭恵夫人を証人喚問したところで、知らないというに決まっている。
財務省の担当者を証人喚問する方が、どれだけ早く真相が分かるか・・・。
だから政治ショーと呼ばれるのだ。
今までは日本国民にとって「あきえ」と言えば、間違いなく浅香あき恵だった。
土曜のお昼、よしもと新喜劇で浅香あき恵を見ると、どんなに辛いことや悲しいことも、どうでもよくなった。
今の政治に本当に必要なのは、昭恵夫人よりも浅香あき恵なのかもしれない。
ギャグに何も足さない、何も引かない。そんな浅香あき恵が存在するのであれば、問いにある素数qも存在するだろう。
これ以上、浅香あき恵の上に昭恵夫人を塗り重ねるような政治は止めてほしい。

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