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design Shigeki MARUI

Photo(準備中)

第19回公演『ブツダンサギ』

特殊美術家・宮崎宏康が、現代美術作家としての活動に専念するために退団。これまで、宮崎の作る美術作品がベトナムの作品に良くも悪くも多大な影響を与えていたことに加え、役者・宮崎宏康という飛び道具も封印することになり、作家・黒川はこれまでとは脚本の書き方そのものを再考せざるを得なくなる。
考えただけの結果は出た。脚本と役者の芝居に集中し、稽古も緻密に重ね、役者のキャラクターを存分に発揮する総合演出力は確実にアップした。スライドとスピードとインパクトで勝負するベトナム得意のパターンに磨きをかけたACT1「ブレーンバスター」、初の“動画”とのシンクロを試みたACT2「ロールプレイングゲーム」、そして、役者の演技が飛躍的にUPしたACT3「ずっこけ三人組」は、再演を嫌がるうちの劇団員をして「もう一度やってみたい」というレベルにまで達した。
にもかかわらず、動員は全く伸びず、代表兼制作はいたく反省する。

Data

2006.1.20.(Fri.)ー22.(Sun.) 5ステージ
アトリエ劇研(京都)

クレジット

脚本/黒川猛

音楽/Nov.16 

秘書/山本佳世

制作/丸井重樹 

舞台監督/小島聡太
音響/小早川保隆 
照明/高原文江

舞台写真/仲川あい

Web予約フォーム/TheaterReservation

出演

黒川猛 

徳永勝則

堀江洋一

山方由美

 

京都芸術センター制作支援事業

アトリエ劇研提携公演

料金  1,500円  日時指定割引1,200円

観客動員  約270人

Details

1996年10月の劇団結成より10年。
様々な「笑い」への挑戦は、新しい段階へ。
中編+短編の構成で送る、第19回公演です。

 

ACT1は、スライドによる映像との共演。
自分の中に棲む“自分”と会話したらどうなるか。現代の私たちがもっとも当たり前だと思っている“自分”という存在を揺さぶるもう一人の“自分”。きわめて哲学的なのに、ネタ先行、物語無視。

ベトナム得意のドタバタSFサイココメディ。

 

ACT2は、ベトナム史上初、“動画”とのシンクロを試みる実験作。
ある有名なRPGのパロディ。プレイヤーではなく、ゲームの中のキャラクターを演じます。

ベトナム流、新時代の無言劇誕生…か。

 

ACT3は、六年三組のみならず、小学校中の人気者だった、ある三人組の30年後。

行動派でリーダー格の男の子。物知りでいつも冷静沈着な男の子。太っちょでマイペースの憎めない男の子。学校で起こる様々な事件を解決し、多くの冒険を重ねてきた三人が、当時マドンナ的存在だった女の子に呼び出され、母校の小学校で再会する。三人の過去・現在・未来を描き出す、そこで行われるゲームとは。

人の不幸と悲劇を笑う、「笑えない笑い」に挑戦する。

ACT1 ブレーンバスター

頭の中の自分と話をしたことがありますか。頭の中の自分はどんなですか。そもそも今の自分は本当に自分ですか。精神医学や認識論・観念論などの哲学をすっ飛ばして笑う、ベトナム流“多重人格論”。

 

自分の中に棲む複数の“自分”同士が会話したらどうなるか。作家も状況がよく分からないまま執筆が進む、ネタ先行、物語無視のベトナム得意のドタバタSFサイココメディ。「二十七年」(第15回公演「ベトナリズム」)の続編的作品。

ACT2 ロールプレイングゲーム

RPG(ロールプレイングゲーム)をやったことがありますか。架空の世界の危機を救うため、主人公と戦士・魔法使い・僧侶などのパーティが、モンスターと戦い、冒険を重ねるコンピューターゲーム。プレイするより楽しいRPGをお見せします。

 

有名なRPG「ドラゴンクエスト」のパロディ。プレイヤーではなく、ゲームの中のキャラクターを演じます。映像とのシンクロを試みる実験作。

ACT3 ずっこけ三人組~ライフ・イズ・ゲーム

小学校時代の夢はなんですか。小学校の時のあだ名はなんでしたか。人生の絶頂期を小学校六年生で迎えた、ハチベエとモーちゃんとハカセが再会する、小学校時代のマドンナとの危険なゲーム。その先に何があるのか。笑えない人生を、笑う。

 

名作「ずっこけ三人組」の登場人物の30年後。人生の転落者となった三人が、当時マドンナ的存在だった女性に呼び出されて母校の小学校で再会する。そこで行われるゲームとは。人の不幸と悲劇を笑う、「笑えない笑い」に挑戦する。ザ・ドリフターズのその後のパロディ「元チャンネル団地」(第17回公演「643ダブルプレー」)の続編的作品。

Producer's note

最近、分かりやすいということについて考えることが多い。

例えば、数年前から、テレビに「字幕」が頻繁に出るようになった、演出効果として成功していることもあるけど、たいていの場合は過剰に感じる。例えば、昨年の衆議院選挙。「郵政改革の是非を問う」。分かりやすい。選挙では、どれだけ多くの人に共感してもらえるかが勝負なのだが、考えなくてもよいぐらい分かりやすすぎるのはどうなのか。例えば、いわゆる“前衛”と呼ばれる芸術活動。難解だ、意味が分からない、芸術家の趣味的活動だ、と風当たりは強い。特に不景気になってくると「今はそんなことにお金を使っている時ではない」となる。芸術家が「別に分からなくてもいいや」と諦めている場合は別として、「分かりやすくない」を簡単に拒否する傾向がどんどん強くなってきている気がするのは私だけだろうか。

 

「分かりやすい」=「考えなくてもよい」だとしたら、これはちょっと恐ろしいことだ。

 

もちろん、そのほうが楽である。マニュアルを信じる。最近その手の本がものすごく増えている。宗教を信じる。唯一絶対の存在さえあれば、考える必要はない。大多数の意見=世間を信じる。そこから少数派に対する差別や偏見が起こる。「違う」は拒否され、「同じ」が肯定される。解剖学者の養老孟司という人は、それは人の脳のくせだという。

 

しかしこのまま「分かりやすい」社会になっていくことは、ちょっと怖い。そして芸術家の活動というのは、それに歯止めをかける役割を担っている気がしている。普通と「違う」価値観、これまでと「違う」ものの見方を、作品を通じて表現するのが芸術家で、芸術家はつねに“少数派”でもあるからだ。

 

ちなみに、ベトナムの「笑い」は、決して分かりやすくはない。

諦めているのではない。もちろん多くの人に笑って欲しいとは思っている。“多くの人が確実に笑える笑い”を目指しているわけではないということ。不条理、ナンセンス、意味不明。これが面白いのではないか、こういうことが面白いのではないか。それって笑えるの? など、新しい「笑い」を常に模索している。

 

本日はご来場いただきましてありがとうございます。
最後までごゆっくりお楽しみください。


ベトナムからの笑い声  丸井重樹
(2006年1月)

 

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