top of page

design Shigeki MARUI

Photo(準備中)

第22回公演『ヘンダーソンVSアンダーソン』

あれだけ「次回は長編を書く」と宣言していたにもかかわらず、劇団の都合もさることながらやはりオムニバス公演のネタの方に興味が尽きず、本公演もオムニバス公演となる。

「妖精たちの挽歌」は、作家が自信を持って送り出したにもかかわらず、観客席は「ポカーン」となる、「村おこし」の二の舞に。また、ギリギリまで構想が固まらず、苦肉の策で一人芝居となった「スパイダーマンに告ぐ」では、俳優・黒川が珍しく窮地に立たされた。が、本公演の目玉は「天覧コント」だった。
「ずっこけ三人組」に続いて、再演してもよいのではないか、と劇団員が言える作品。俳優が創り出す空気、間、台詞の妙、いずれも納得のいく完成度が見えた。そして何より、日本最大のタブーに挑んだ意欲作だった。

Data

2007.8.11.(Sat.)ー13.(Mon.) 5ステージ
スペース・イサン(京都)

クレジット

脚本/黒川猛

秘書/山本佳世

制作/丸井重樹 

舞台監督/浜村修司(GEKKEN staff room)
音楽/岩本天王

音響/小早川保隆 
照明/高原文江(GEKKEN staff room)

絵・映像/中川剛

制作協力/アトリエ劇研
舞台写真/仲川あい

Web予約フォーム/TheaterReservation

出演

黒川猛 

徳永勝則

堀江洋一

松村康右

山方由美

声の出演

丸井重樹

京都芸術センター制作支援事業

料金  1,800円  日時指定割引1,500円  ペアチケット2,500円

観客動員  約350人

Details

短編二本と中編一本の三本立て。

「妖精たちの挽歌」は、久しぶりとなる黒川・堀江の二人芝居。
鬱蒼とした森の中、一人の男が“妖精”と出会う。普段、人間には見えないはずの“妖精”が見えてしまう男と、見られたら立場を失う“妖精”。やがて、この森に住まうたくさんに“妖精”が集まってくる…。
見てはいけない人間と見えてはいけない妖精と、見えない無数の妖精の会話は、混乱を極めていく。果たしてその結末は。

「スパイダーマンに告ぐ」は、恒例となった黒川の一人芝居。
スパイダーマンになった男が、新たな“○○マン”を生み出すべく、苦悶している。果たして現代のアメリカは、どんなニューヒーローを待望しているのか。スパイダーマンが語る、アメリカ。「…に告ぐ」じゃないな、これ。
なお、諸事情により、チラシ等に記載された内容と若干異なるニュアンスの作品となっております。ご了承ください。

「天覧コント」は、日本最大のタブーに挑む意欲作。
天覧試合ならぬ、天覧演芸会に招聘されたコントグループ「大森ヘップバーン」。その下品で馬鹿馬鹿しいコントは、一部熱狂的なファンの支持を得ているものの、出入り禁止の劇場が全国に7つあるなど、演芸界からはまったく相手にされていない。その彼らが“あのお方”の前でコントを上演するまでの顛末を描く。果たして彼らは“あのお方”の前で、無事に、コント、を、上演、する、こと、が、できる、の、か?? 「笑い」にかける芸人の意地とプライドが勝つか、それとも…。
イデオロギー批判をするつもりは全くありません。では、日本最大のタブーとは一体何か。“それ”をタブー視する、世間=共同体に緩く纏わりついて締めつける空気と意識。「笑い」は差別である、とするならば、「笑い」をやる人たちは、すべからくこの日本最大のタブーと対決することに、なる。たぶん。

さて。
あんなに前回公演終了時に「次回は長編作品!」と告知したのに、

・長編のプロットよりも、短編への脚本家の興味が上回った
・長編をやるための舞台美術予算を組めそうになかった
・長編のために募集した、劇団の新人応募がゼロだった

などの理由から、またもオムニバス公演となります。
長編を楽しみにしてくださっていた皆様、本当にごめんなさい。

なお、本公演より、音楽担当のNov.16が劇団を離れ、俳優・松村康右が劇団員となりました。今後ともよろしくお願いいたします。

ACT1 妖精たちの挽歌

とある山奥で出会った一人の男と一匹の妖精。
本当は見えるはずがないその妖精の姿が、男にはなぜか見えてしまう。焦る妖精。男の周りには、見えざる無数の妖精がいるらしい。焦る男。騒ぐ妖精たち。見えている妖精と、見えざる妖精たちと、人間の男の会話は、加速度的に混乱していく。なぜ男に妖精が見えるのか。妖精の正体は。そして驚くべき結末とは。私たちが一般的に抱いているイメージや常識を、笑う。

 

黒川と堀江の二人芝居。突然人間(黒川)の目に触れられるようになってしまった妖精(? 堀江)の話。
見えないものを扱うことで、演劇のルールを悪用し、“妖精”と聞いて思い浮かべる私たちの固定概念をことごとくぶち壊す。トリッキーなキャラクター・堀江の見えざる妖精との会話(一人芝居)に、黒川はいかに突っ込むか。堀江のアイデアもふんだんに盛り込まれた妄想だらけの短編。

ACT2 スパイダーマンに告ぐ

“スパイダーマン”以外の、××マンが次々とやってくる。
なにやら熱く語っている。何を言っているのかさっぱり分からないが、とにかく熱く語っている。ベトナム流、ハリウッド映画演劇。いや、演説。いや、コント? ハリウッドと、現在のアメリカを、笑う。

 

スパイダーマン=蜘蛛男。というわけで、様々な○○男(女)が物申す、ベトナム流ハリウッド映画演劇。あえて言うまでもなく、かなりチープ。ハリウッド映画をネタにした、作家・黒川の(現在の)アメリカ合衆国大統領批判。イラク戦争に賛成の方は見ないでください。

ACT3 天覧コント~大森ヘップバーンのチャンピオン

とあるビルの一室に集められた男四人。
彼らはお笑いコントグループ「大森ヘップバーン」。秋に行われる「天覧演芸会」に招聘されることとなった。その初めての打ち合わせ。緊張の面持ちで待つ四人。そこに現れたのは…。

果たして彼らは“あのお方”の前で無事にコントを上演できるのか。そして“あのお方”を笑わせることが出来るのか。イデオロギー批判や、政治的主張をするつもりは一切ありません。しいていうなら、犯しきれないタブーと、不気味に纏わり締め付けられているこの国の世間体を、笑う。
 

天覧試合ならぬ、天覧演芸会に招聘されたコントグループ・大森ヘップバーン。演芸界では誰からも相手にされず、出入り禁止の劇場が全国に七つある、大森ヘップバーン。果たして彼らは、無事に、あのお方、の、前で、コント、を、上演できるの、か?
天皇制批判ではありません。むしろ、皇族に過剰反応する、この国が拭いきれないお上意識に疑問符を投げかける。極限の緊張状態、タブーだらけの状況で、「笑い」のプロとしていかに仕事をするべきか。そこには「笑い」の本質が隠されている…かもしれない。

---Key Words

■妖精と妖怪

かつてベトナムには「妖怪シリーズ」と銘打たれた作品があった。
「河童と天狗と俺?」(第13回公演「バッドブザー」)に始まり、「将軍馬」(第14回公演「ゴッドバザー」)、「マンホール」(第15回公演「ベトナリズム」)で一応完結。姉妹編として「妖怪シリーズ」を踏まえた「恐怖!怪人ダルマ男爵現る」(第16回公演「G・H・Q」)も作られた。
何か困った相談事のある妖怪が、人間を(棺桶に入れて)拉致してきて、“ご決断”を迫る、というストーリー、珍妙な妖怪たちと、それに切れまくり殴り蹴り倒す人間=黒川が見ものだった。これまでに、河童、天狗、雀雀草、将軍馬、天邪鬼、サトリ、(森の)妖精、(沼の)主、疫病神が登場した。
(…ここまで書いて気がつく。すでに登場してるな“妖精”。そしてその時も堀江が妖精を演じていた…。)
今回は“妖精”。というか珍妙な“精(霊)”が多数登場する。ただし、見えないけど。


■天邪鬼

ベトナムの「妖怪シリーズ」で徳永くんが演じた役。
天邪鬼の相談事は「みんなの言うことの逆のことをするのが面倒くさい」ことだった。みんなからはジャックと呼ばれている。「妖怪シリーズ」で唯一連続して出演した。二度目の出演の際は身も心もボロボロになっていて、すでに妖怪でもなくなってきた自分を「妖怪にしてください」という相談だった。その時には、やはり妖怪としての能力が衰え、全く人の心を読めなくなったサトリも登場した。


■二人芝居と映像の系譜
黒川と堀江の二人芝居の歴史は古い。
そこに映像が付加される作品の最初は、二人がもっとも忘れたいと思っているかもしれない作品「もっこり係長」(第15回公演「ベトナリズム」)である。四コマ漫画の登場人物である黒川と堀江が、最近の出演(?)漫画について愚痴を言う、と言うシュールな作品。実際のマンガが背後のスクリーンに映された。その後、「安藤博士と伴教授」(第16回公演「G・H・Q」)では、怪人を産みだす安藤博士=堀江に突っ込む伴教授=黒川という構図で、怪人のスライドがスクリーンに映された。二人芝居ではないが「ブレーンバスター」(第19回公演「ブツダンサギ」)も同じような構図の作品だったと言える。
これらの映像を作っているのが、中川剛氏である。演劇部時代の丸井の同期で、ベトナムの第2回公演「タイガーマスク」に出演。それ以降も、ベトナムの作品に対してもっとも手厳しい評価を下す。かつては、現在休団中の宮崎宏康と共に現代美術ユニットを組んでいた。彼の作ったスライドの中で傑作なのは「ザ・演劇ドラフト会議」(第18回公演「ニセキョセンブーム」)で登場した、架空の12劇団の“劇団旗”であろう。プロ野球の球団旗をギリギリまでぱくったその手腕は、ちょっとすごい。

■妖怪大戦争
2005年に公開された日本映画。
この映画の企画の発端は1968年に公開された大映の同名作品「妖怪大戦争」にあり、そのため本作はそのリメイク企画の作品であるが、時代設定・登場人物・筋立て等あらゆる面で全く異なっており(登場する妖怪の一部は旧作に準じており、特に旧作で主役級の役割を果たした河童は今作品でも同様に扱われている)、実質上別作品と言えるくらい違う映画になった。二作品で共通するのはジャンルとタイトルのみと言っても過言ではない。(フリー百科事典 ウィキペディアより)
製作者の意図は分からないが、僕らの間ではかなりの面白映画として認識されている。

■ティンカーベル

ピーターパンに出てくる、小さな妖精。
“妖精”という概念が日本にはもともとないため、日本で“妖精”といえば、この小さな羽根の生えた女の子を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。
そもそも妖精とは「主にヨーロッパの民間伝承における超自然現象や不思議現象などの、非日常的存在のことで、日本における妖怪に当たる。英語「fairy」の訳語として最も一般的。自然界に住む精霊の中で、主に人に似た形をしたものを指す。」(フリー百科事典 ウィキペディアより)とある。

■となりのトトロ

宮崎駿監督作品の映画。1988年公開。
そこに登場する精霊が「トトロ」。1300歳ぐらい。森の大木の精。純粋な心を持つ子どもにしか見えない。父親の帰りを待つ雨降りのバス停で、主人公のさつきがトトロと初めて出会うシーンが有名。妹のメイを背負って赤い傘を差しているさつきのとなりに立っているトトロを描いたポスターにもなっている。雨よけに葉っぱしか持たないトトロに、さつきは父親用に持ってきた黒い傘を貸す。
とにかく子どもに大人気で、宮崎駿作品でもっともキャラクター商品が多いのではないか。そういう意味で、もっとも世間に露出しているキャラクターである。

 

■スパイダーマン

『スパイダーマン』(Spider-Man)は、アメリカ合衆国のマーベル・コミック刊行の複数のアメコミに登場する架空のヒーロー。また、彼の登場するコミック、アニメ、テレビドラマ、映画作品及び、そのシリーズ名にも使われている。(フリー百科事典 ウィキペディアより)
有名なのは、今年(2007年)に第3弾が公開されたハリウッド映画の「スパイダーマン」だろう。元ネタがある作品を書く際、その元ネタを参照しないことが多い黒川も、今回は観たらしい。

■ブッシュ

現在のアメリカ大統領。ジョージ・ウォーカー・ブッシュ。
第43代大統領。父親(ジョージ・ハーバート・ブッシュ)も大統領(第41代)。親子で大統領になるのは史上二度目らしい。父親はその在任中に湾岸戦争をリードし、息子はイラク戦争を仕掛けた。
ベトナムでは、この困った大統領のことを何度か取り上げている。まず「悪の枢軸発言」を劇中で流したことがある(第16回公演「G・H・Q」の「第六師団」)。続いて「アクタガワリュウノスケ」(第20回公演「サンサンロクビョウシ」)では、親子2代のブッシュ大統領を皮肉った。そして今回である。スパイダーマンの姿を借りて行う、ブッシュ批判となるか。

■天覧試合

天皇・皇后が観戦するスポーツ競技のこと。同じく相撲観戦の場合は“天覧相撲”とも言われる。
もっとも有名な天覧試合は、1959年のプロ野球・巨人-阪神戦(後楽園球場)。いわゆる「伝統の一戦」を昭和天皇と香淳皇后が観戦した。結果は、巨人の長嶋茂雄が9回裏にサヨナラホームランを打って勝利するという劇的なものだった。天皇・皇后が野球観戦できるのが21時15分までで、もし延長戦になっていれば、試合の行方を見届けることが出来なかったという。ホームランを打たれたのは、阪神の新人・村山実。レフトポール際に入ったそのホームランを村山は「あれはファールだった」と言い続けた。王と長島が同じ試合にホームランを打つ「ONアベック弾」の第1号も、この試合で生まれているという。村山実の1500奪三振を記録したのも長嶋茂雄。恐るべし長嶋茂雄。最新の天覧試合は、2005年6月25日の阪神-巨人戦(甲子園球場)。
ちなみに、天覧演芸会というのは、おそらく未だ開催されたことがない。
皇太子夫妻が映画を見たとか、ミュージカルを観たという話は聞いたことがあるが。

■演劇とコント

演劇とコントの境界線上を驀進するベトナムが、ついにコントグループの話を。しかも、コントの上演を舞台上で行います。…天覧コントなので、どうなるかは見てのお楽しみですが。
ちなみに個人的には、コントと演劇の境目は俳優の演技にあると思っています。俳優の演技がその人の“素”の状態に傾いていればコント。“演技”に傾いていれば演劇。これは、“演技とは何か”という難しい問題を孕んでいるので、一筋縄ではいかない問題ではあるのですが、漫才師の人たちがやるコントは、往々にして自分の名前をそのまま役名として使います。また、そのキャラクター前提で役が作られていたりします。それらはコントだと判断しています。
…もちろん、これは個人的な見解です。そういう意味で、ベトナムの芝居は全て、演劇だと思っています。

■笑えない笑いの系譜

笑えない笑いを笑う、というシリーズの作品があります。
最初は「元チャンネル団地」(第17回公演「643ダブルプレー」)。そして「ずっこけ三人組」(第19回公演「ブツダンサギ」)。前作の「ドーピング」(第21回公演「ストロングボーズ」)も、一応その系譜か。
悲哀や不幸を笑うことは、どこかでタブーとされる。差別と紙一重だからだろう。しかし、中島らも氏は「笑いは差別である」と断言しています。筒井康隆氏も似たようなことを言っています。ベトナム及び黒川も、わかりやすい笑いやハートフル・コメディ、「笑いと健康」について考えている人たちとは、全く異なる「笑い観」なのでしょう。
なお、中島らも氏の本で「何がおかしい」という著作が出ている(2006年8月)。未読だが、ぜひ読んでおきたい。

Producer's note

社会にとって演劇は必要か。

 

ある人とやりとりをしていて、例えば観客=社会だとして、最近の演劇の問題は、観客以外の社会を想定していないことだ、という話になった。その劇場に来る観客だけが対象となっているため、視野が狭い。その時劇場は、観客を外界と遮断する防御壁となってしまう。劇場の外に広がる社会(これもまた、まだ見ぬ観客)をどれだけ想定できているのか。昔はそうではなかった。創り手だけではない。それを支援する人たちも、マスコミも、作品が社会とつながる、想定外の出会いの場所として劇場があり、その窓口として観客がいると意識していた。…と思う。

 

もちろん、すべての観客に受け入れられるとか、理解されるとか、そんなことを目指すことはナンセンスだ。しかし、目の前にいる観客だけを相手にするのは、すべて段取りが用意されたバラエティー番組のボクシングのようなもの。リアル・ファイトは、もちろん目の前にいる観客と、その向こう側にいる、まだ見ぬ観客を想定することから始まる。

本日はご来場いただきましてありがとうございます。
最後までごゆっくりお楽しみください。

ベトナムからの笑い声  丸井重樹
(2007年8月)

 

PREVIOUS Stage

NEXT Stage

bottom of page