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出口逸平(『ACT』3号 国際演劇評論家協会日本センター関西支部発行 より)

鈴江俊郎作・演出の『そこにあるということ』(8月25-29日、アトリエ劇研)は、1996年2月(京都府文化芸術会館)と1997年1月(ウイングフィールド、岡山県総合文化センター)に続く再々演となる。入ってまず劇場の様子に驚かされた(舞台美術 長沼久美子)。

狭い舞台に何本もの柱が立ち並び、客席はその舞台を見下ろす急勾配の高さにしつらえられている。ミニ・コロセウム、あるいはリング場といえばいいのか。観客はこれから始まる闘いを間近に見物するという格好なのだ。

そう、それはまさに男女の闘いの場となるはずであった。同時に三人の女性を妊娠させた男。当然男はそのだらしなさを糾弾される。しかし女性たちはただの被害者ではない。それぞれの女性と男との関わりが明らかになるにつれて、男を含めじつは皆が同じように空虚感を抱えており、だからこそ互いに「そこにある」ことを確かめようと関係をもってしまうという道筋が浮かび上がってくる。

初演では男の前から女性たちが消え去り、一人残された男が「皆、同じなんだ。そうでもしないと、そこにはなにもないんだ」とつぶやくシーンで舞台は閉じられた。ところが今回は「なにもない」ことに耐えきれず、男が部屋じゅうに物をぶちまけ暴れまわる。ほかに空虚を埋めるすべを持たないその姿は、狂おしくもまたやるせない。そこに去っていった女性たちがもどってきて、今度は彼女たち全員で雑魚寝するという場面が付け加えられた。この新たな結末によって、「孤独であることの共感」とでもいうべき作品のモチーフがより一層印象付けられることになった。中村美保、金城幸子、加納亮子(桃園会)が三者三様の女性像を鮮やかに描き出して、劇のリズムを作った。

 

劇団八時半『そこにあるということ』(再再演)(2004年8月、アトリエ劇研)

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